佐渡路(三国街道)

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三国街道

三国街道:概要
三国街道(佐渡路)は戦国時代に上杉謙信により開削された街道です。上杉謙信は関東管領上杉家の名跡を継ぎ、佐渡路(三国街道)大義名分により形式上は関東地方を支配する立場にあり、関東地方を実効支配する為に大軍の移動と補給路の確保が必要不可欠となり三国街道が軍路として整備されました。江戸時代に入ると、佐渡金山(新潟県佐渡市)が幕府の財政を支える貴重な財源となった為、佐渡金山と江戸を結ぶ三国街道が重要視されました。特に三国街道では佐渡金山奉行の往来と、江戸の罪人や無宿人を佐渡金山の貴重な労働力として派遣する際に利用しました。又、長岡藩(新潟県長岡市)、与板藩(新潟県長岡市)、村松藩(新潟県五泉市)の参勤交代の経路でもあり各宿場の本陣や脇本陣では宿泊や休息で利用されています。戊辰戦争の際には中立を主張した長岡藩を許さなかった新政府軍(前橋藩、高崎藩、吉井藩)が三国街道から長岡藩領に侵入し、慶応4年(1868)4月24日に三国峠の戦いが行われています。明治時代以降になると三国街道の重要性が失われ、城下町以外の宿場町は概ね衰退しています。

湯沢宿
湯沢宿(新潟県湯沢町)は三国街道の宿場町で、ここから三国峠にかけては峠路となる為に軍事的に重要視され、戦国時代には上杉影勝によって荒戸城が築かれ軍事拠点としました。現在はスキー場と温泉街となっている為、宿場町の雰囲気が失われつつあります。

三俣宿
三俣宿(新潟県湯沢町)は三国街道の宿場町として成立した町で三国三宿の中では最も栄え、本陣1軒、脇本陣2軒が設けられました。現在でも脇本陣職を担った池田家住宅(江戸時代後期建築・新潟県指定文化財)が残され異彩を放っています。

二居宿
二居宿(新潟県湯沢町)は三国街道の宿場町として成立した町です。現在でも明治2年(1689)に再建された本陣職を担った富沢家住宅が残され湯沢町指定史跡に指定されています。

浅貝宿
浅貝宿(新潟県湯沢町)は三国街道の宿場町として成立した町で、越後国と上野国の国堺近くに位置し、戦国時代には戦略的な拠点として重要視され、上杉謙信によって浅貝寄居城(湯沢町指定史跡)が築城されています。幕末の戊辰戦争の兵火により大きな被害を受け、その後にスキー場として整備された為、宿場町の雰囲気は失われつつあります。

三国峠
三国峠は越後国、上野国、信濃国の三国に跨る標高1636mの三国山に連なる事から名づけられた峠で、三国街道最大の難所でした。三国峠は戦国時代に上杉謙信が関東進出の為に開削したのが始まりとされ、明治時代以降は新路が整備された為、現在でも旧街道の形状が良く残されています。峠の頂上部には、越後国一宮で弥彦神社の祭神と、上野国二宮である赤城神社の祭神(上野国一宮は貫前神社ですが、元々は赤城神社で貫前神社が進出するとその座を譲ったとの伝説が残されています)、信濃国一宮である諏訪大社の祭神を合祀した三国権現(三坂神社)が鎮座しています。

永井宿
永井宿(群馬県みなかみ町)は平安時代末期に俘囚長だった安倍氏の家臣が当地に逃れ開村したのが始まりとされ、江戸時代に入り三国街道が開削されると宿場町として整備されました。越後国の国境に接していた事から、永井宿が物資の中継地となり本陣職を担った笛木家は豪商としての一面がありました。本陣は取り壊されましたが現在でも永井宿には宿場町の雰囲気が残されています。

吹路宿
明治時代に三国街道が廃道となり、土砂崩れにより街道がふさがれると急速に衰退し現在は宿場町の雰囲気が失われています。

猿ケ京宿
猿ヶ京宿(群馬県みなかみ町)は三国街道の宿場町として成立した町で、軍事的な要衝だった事から江戸時代初期には猿ヶ京関所が設置され、当初は沼田藩(群馬県沼田市)真田家、真田家が改易になると天領として幕府に命じられた後高野家・片野家・木村家・戸部家が関守の任を代々務めました。現在でも猿ヶ京関所の片野家の役宅が残され群馬県指定史跡に指定されています。
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