中山道(信濃路)

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笠取峠・和田宿・和田峠・奈良井宿・鳥居峠・妻籠宿・馬籠峠

笠取峠
笠取峠は標高900m、長野県北佐久郡立科町(芦田宿)と長野県小県郡長和町(長久保宿)との境に位置する峠道で、中山道の難所の1つでもありました。峠の名称は山頂に至る過程で、噴出すように頭から汗が流れ落ち、知らない間に頭に被っていた笠を取ってしまう人が多かった事を由来にしています。特に、麓にある芦田宿から山頂にかけては、慶長7年(1602)に幕府が中山道を開削した際に、当区間を整備する担当だった小諸藩(長野県小諸市:本城−小諸城)に下附された赤松数百本が植えられた名残を見る事が出来ます。小諸藩は江戸時代を通してこの区間の整備、管理を行った事から、何時しか中山道の名所の1つに数えられるまでになりました。現在では100余本の老松が残され、名称「笠取峠のマツ並木」として昭和49年(1974)に長野県指定天然記念物に指定されています。

和田宿
和田宿(長野県長和町和田)は背後に中山道の最高所(標高1531m)の和田峠を控える戦略的な要地として和田宿・町並み戦国時代に大井氏によって和田城が築かれ、その城下町として町割されています。和田城の麓には大井信定の菩提寺である信定寺や、城の北東には鬼門鎮守として若宮八幡神社が境内を構え城下町の名残が見られます。慶長7年(1602)に中山道が幕府により開削されると江戸日本橋から28番目の宿場町として整備され、本陣や脇本陣、問屋、旅籠などが設置されました。特に、中山道の難所として知られた和田峠(標高:1531m)を控え、隣の下諏訪宿(長野県下諏訪町)までは5里18町(約22km)と一般的な宿場間の距離3倍程度と離れていた為、旅籠屋・茶屋は72軒、最盛期の伝馬役は70軒を数えました。江戸時代末期には大火により大部分の建物が焼失しましたが、皇女和宮(仁孝天皇の第8皇女。孝明天皇の異母妹)が徳川将軍家に降嫁の際、中山道が利用される事が決められていた事から、突貫工事で宿場町の再建が図られてます。現在もその当時に再建された本陣の他、脇本陣、下の問屋、なが井、よろずやなどの伝統的な建築物も多く、宿場町らしい町並みが残され、中山道沿いが国指定史跡に指定されています。

和田峠
和田峠は中山道の難所の1つで標高1531mは中山道の最高所とされます。和田宿と麓にある下諏訪宿との間には5里18町(約22km)と一般的な宿場間と比べると距離が長かった為、和田宿、下諏訪宿共に多くの旅籠や問屋が設けられ、さらに、峠には茶屋や避難所が設置する事で街道利用者の利便を図りました。特に接待茶屋は江戸出身の豪商かせや与兵衛が文政11年(1828)に寄進したもので永代人馬施行所として11月から3月まで和田峠を利用した旅人や商人は1人につき粥一杯と焚火、牛馬には煮麦が施されていました。その他にも街道沿いには石碑や石仏、石灯籠などが建立され現在も往時の景観が残されています。又、歴史的な舞台でもあり、江戸時代末期の元治元年(1864)には天狗党と高島藩、松本藩連合軍が激戦(和田峠の戦い)を繰り広げています。和田峠の中山道沿いは国指定史跡に指定されています。

奈良井宿
奈良井宿は天文元年(1532)に領主である木曽義在が専念寺を奈良井の地に創建した、翌年、宿場町として整備した町です。奈良井宿・町並みその後、木曽氏は武田信玄に下ると、信玄の命で福島宿から下諏訪宿までの街道が整備され、奈良井宿にも伝馬が設けられています。その後、木曽氏の一族と思われる奈良井氏が居城である奈良井城を築城し城下町として整備し、菩提寺である大宝寺を創建し、鳥居峠から奈良井宿の南西に裏鬼門鎮守として鎮神社を遷座し、北東の鬼門鎮守として氏神である八幡宮を創建しています。慶長7年(1602)に中山道(木曽路)が開削されると改めて宿場町として整備されています。奈良井宿は中山道(木曽路)の難所として知られる鳥居峠を控えていた為、旅籠の軒数は少ないものの、「奈良井千軒」の異名がある程、多くの家屋が軒を連ね、木曽路11宿の中でも最大規模の宿場町として繁栄しました。現在でも手塚家住宅(国指定重要文化財)、中村邸(塩尻市指定文化財)、徳利屋(塩尻市指定文化財)など伝統的な町屋建築が数多く残され、宿場町らしい町並みが軒を連ねている事から国重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。

鳥居峠
鳥居峠(標高:1197m)は中山道(木曽路)の難所の1つで奈良井宿と藪原宿の間に位置しています。古代は美濃国と信濃国の国境で、中世は木曽氏の領内境として重要視され、当時の領主木曽義元が御嶽神社の遥拝所の鳥居を造営した事から鳥居峠と呼ばれるようになったと伝えられています。戦略的な要地だった事から天文18年(1549)には武田信玄(当時の晴信)と木曽義康、天正10年(1582)には武田勝頼と木曽義昌が激しい戦いを繰り広げています。現在でも鳥居峠には子産の栃や御嶽神社、義仲硯水、石畳などの史跡が点在し街道の景観が良く残されています。

妻籠宿
妻籠の地は美濃方向(中山道)と伊那方向(大平街道・飯田街道)に結ぶ街道が交差する交通の要衝で、平安時代末期には妻籠宿・町並み木曽義仲によって妻籠砦が築かれました。中世、木曽氏が支配すると、本城である須原城の支城として妻籠城は重要視されるようになり、城下町は天文2年(1533)に木曽義在によって宿場町として整備されています。豊臣秀吉と徳川家康との戦いである小牧長久手の戦いでは木曽氏は豊臣家に協力した為、妻籠城は木曽氏の最終防衛線として徳川方の大軍を食い止めています(妻籠城の戦い)。慶長7年(1602)に中山道(木曽路)が開削されると改めて宿場町として整備され、妻籠宿(長野県南木曽町)の本陣には土豪だった島崎氏(馬籠宿の本陣職を担った島崎氏と同族、馬籠島崎氏からは文豪として知られた島崎藤村を輩出)が歴任しています。脇本陣の林家も旧土豪で中世の支配層がそのまま近世でも宿場の上役を担っています。林家は屋号「奥屋」を掲げる妻籠宿を代表する豪商でもあり、明治時代に再建された家屋は当時の最高技術と木曽産の銘木をふんだんに使用した貴重な建物で国指定重要文化財に指定されています。妻籠宿は早くから町並み保存運動が盛んだった地域で逸早く国重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。

馬籠峠
馬籠峠(標高801m)は中山道(木曽路)の難所の1つで、近年、山口村(馬籠宿)が長野県から岐阜県に編入した為、長野県木曽郡南木曽町と岐阜県中津川市の境となっています。妻籠宿側には名所として知られる男滝、女滝があり、その近くには倉科様伝説の舞台でもある倉科神社が鎮座しています。頂上付近には妻籠関所廃止後に関所となった一石栃白木番所跡や子安観音があり、熊野神社が鎮座しています。この区間には石畳や石仏、石碑も点在し、当時の中山道の様子が色濃く残されているところでもあり、観光地である妻籠宿と馬籠宿を繋ぐ散策路としても整備されています。
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